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2009-09-22(Tue)

機密費透明化どこへ 政権交代で追及から一転?

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首相や官房長官の判断で自由に使えるカネとされる官房機密費(内閣官房報償費)。民主党は野党時代、機密費の不正流用を厳しく批判してきた姿勢を一転し、政権発足後は透明化に消極的な姿勢が目立っている。
 平野博文官房長官は就任翌日の記者会見で、官房機密費について問われると、「そんなのあるんですか。承知しておりませんから、コメントはできません」と、しらを切った。存在した場合にどう対応するのかと再質問されても「たらればの話はできない」と取り合わなかった。
 官房機密費は「国の事務、事業を円滑かつ効果的に遂行するため、機動的に使用する経費」とされる。
 例年、予算計上されたほぼ全額を使い切り、2009年度も約14億円を計上している。
 私的流用や国会対策への支出が問題になった02年、当時、民主党代表だった鳩山由紀夫首相が「使われ方や、どのような状況なのかに関心を持っている」と追及。支払い記録の作成や、一定期間経過後の公表義務化を定めた「機密費流用防止法案」を国会に提出した。
 01年には当時の塩川正十郎財務相が、宇野内閣の官房長官当時の話として「官房機密費を野党対策に使った」と発言。野党の追及で国会が紛糾すると、塩川氏は一転して「忘れた」ととぼけたこともあった。
 平野氏の態度が煮え切らないのは、与野党議員の根回しなど国会対策への流用を明らかにすれば、自民党だけでなく、民主党にも問題が波及し、順調なスタートを切った新政権に水を差す懸念があるからだ。
 また、使途を公表せず自由に使えるカネは円滑な政権運営をしていくうえで、やはり必要だと手放したくなくなったのではないか、との見方もある。
 ただ、政権交代を境に透明化へ消極的な姿勢へ転じたのならば、国民の失望を招き、税金の無駄遣いを洗い出すという政権の基本姿勢を疑われる。新政権は難しい判断を迫られている。
2009-08-20(Thu)

民主党と国旗

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民主党が鹿児島県霧島市で開いた集会で2枚の国旗を切り張りして作った民主党の旗を掲げた問題で、地元の民主党候補の後援会が「誠に不適切」とする謝罪文を出した。熱心な支持者が手作りで作製したもので、国旗をおとしめる意図はなかったという内容だ。
 だが、この衆院選立候補予定者の決起集会には、民主党の小沢一郎代表代行も出席し、切り張りされた国旗が一時、民主党のホームページにも掲載されていた。後援会の謝罪文だけで済ませるべき問題ではないだろう。
外国では、国旗への侮辱行為に刑事罰を科す国が多い。日本には国旗侮辱罪などを規定した法律はないが、法律以前に、国旗は国歌とともに、国と国民の一体感を表す象徴である。党派や主義主張の違いを超え、国民として敬意を表さねばならないものだ。
まして、民主党は野党第一党として、次期政権をめざす政党である。党として、鹿児島県で起きた問題をどうとらえ、国旗のことをどう考えているのかを、国民にきちんと説明すべきである。国旗を切り張りした経緯も、後援会の謝罪文では不十分だ。党で責任をもって事実関係を調べてほしい。
 平成11年、国旗国歌法が成立した際、当時の民主党は自主投票で採決に臨んだ。自民党出身と旧民社党系の議員はほとんど賛成し、旧社会党系議員はほとんど反対した。そうした複雑な党内事情を反映してか、民主党の大会では国旗が掲げられていない。
鳩山由紀夫代表も今回、「それは国旗ではなく、われわれの神聖なマークなのできちんと作られなければいけない」と国旗より党旗を重視するかのような発言をしている。だが、民主党が仮に政権を取った場合、今までのような国旗・国歌に対する中途半端な姿勢では済まされない。
 民主党の支持母体である日教組はいまだに、「日の丸・君が代の法制化に反対」という昭和50年の見解を変えていない。国旗国歌法成立後も、日教組の強い地域や学校では反対運動が続き、小学生による校長への土下座要求(平成12年、東京都国立市)や民間人校長の自殺(15年、広島県尾道市)などの事件が起きた。
 国旗・国歌の指導を含め、子供たちに日本の歴史と文化の伝統をどう伝え、国を愛する心をどうはぐくんでいくかも、衆院選で大いに論じてほしい。
2009-08-11(Tue)

緊急地震警報



テレビのニュースを見ている時には初めて緊急地震警報の画面を見たが、揺れが来るまで何もできなかった。
時間は10数秒はあったと思うが・・・
2009-05-10(Sun)

忌野清志郎さんの葬儀

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忌野清志郎さんの葬儀には、生前から親交の深かったミュージシャンや俳優らが多数参列した。葬儀では俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさん、ロックミュージシャンの甲本ヒロトさんの3人が弔辞で在りし日の清志郎さんをしのび、別れを惜しんだ。弔辞の全文は次の通り。

◆俳優・竹中直人さんの弔辞
清志郎さんへ。清志郎さん、清志郎さん。僕はきょう、清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」。ただ、それだけを言うつもりで来たのに、「弔辞をお願いします」って、ものすごいプレッシャーです。めちゃくちゃプレッシャーです。だから、清志郎さんにもらった指輪をしてきました。きのうの朝はものすごい雨と雷でした。急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。ボス、キング、ゴッド……、いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとっては、やっぱり清志郎さんです。何だかまだぼーっとしています。体も心もまだ震えています。
お通夜の日、清志郎さんの寝顔を見たけど、別人じゃないかって思ってしまいました。でも、とてもきれいな顔でした。とってもきれいな手でした。僕ね、清志郎さん、僕たちはまだ、信じられない思いでいっぱいです。忌野清志郎が死んじまった。何度も言葉でつぶやいても、心の中で思っても、受け入れることができません。絶対に受け入れることなんかできるわけがない。でも、本当は、清志郎さん、大好きな清志郎さん、みんなみんな、清志郎さんのことが大好きです。清志郎さんのこと嫌いな人なんて、誰一人だっていない。 清志郎さんががんを克服したとき、三浦友和さんと3人でお祝いをしましたね。そのとき清志郎さんは「竹中、オレ、ガンじゃなかったかもしれないんだが、いまさらそんなこと言えないんだよな」って言ってましたね。 僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。「なんて独特な声の持ち主なんだ」。それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。僕はみんなに自慢したいです。オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。世界中の人に自慢したいです。ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。 清志郎さんの髪が抗がん剤で抜け落ちて、また生えて来た時、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。「竹中、竹中には絶対勧められないんだけどさ。抗がん剤ってさ、髪が全部抜けちゃうんだけど、その後に生えてくる髪が剛毛なんだぜ」って。でも僕は清志郎さんに「頑張ってください」なんて、ありきたりな言葉しか言えなかった。 清志郎さん。清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。忌野清志郎は死んでない。ずっとずっと僕たちの中に生きています。ものすごくさびしいけど、僕たちはそう確信しています。 清志郎さん。僕の母は、僕が高校3年生の時に亡くなりました。母の死はそのころの僕にとっては深い悲しみでした。3年前、母の33回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんが、こんな言葉を僕に伝えてくれました。「直人君のお母さんが33年間、ずっと直人君のそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たってお母さんがやっと直人君から離れて月に帰っていったんだ」。だから清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。そして、月に帰っていくんですよね。だから清志郎さん、これからも33年間、僕たちのことを見守っていてくださいね。見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。 清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。ずっとずっとずっと! 清志郎さーん、またね!(大きく手を振って、一礼)

◆俳優・大竹しのぶさんの弔辞
清志郎さん、今日、晴れたよ。たくさんの人たちが朝早くから並んで待っています。あの武道館の日みたいに、ゆうべも空を見ながら清志郎さんのことを思いました。今ここでこんな風にあなたとお話をする日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。今頃はきっとつくばの町を自転車で走っているか、完全復活完全版の夏のフェスのリハーサルがそろそろ始まる時期なので忙しくなっているはずでした。そう約束していましたよね。 去年の2月、たくさんの、ほんとうにたくさんの人たちがあなたの復活を喜び感動し、夢はかなうものだと教えてもらいました。そして7月、あなたの病気の再発がわかった夜、私はゆうべのように空を見ながら、どうぞ一日も早く病気が治りますように、がんなんてどっかにいってしまいますようにとお祈りしました。そのとき、ああ今こうしてたくさんのファンの人たちが私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。「清志郎、がんばれ」「清志郎、絶対戻ってこい」って、あなたが言った「夢を忘れず」にという言葉と一緒に。だから絶対治ると信じることができました。そのことをあなたに言ったら、あなたからの返信は「ラブ ラブ ラブ」でしたね。「みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね」という力強いものでした。 そしてこの5月、あなたにもう二度と会えないとわかったとき、たくさんの人が大きなとてつもなく大きな悲しみに包まれました。でもそれと同時に、あなたの歌に、言葉に、音楽に、再び命が注ぎ込まれて私たちの心にずっと生き続けることを確認できた夜になりました。あなたを大好きな音楽の仲間たちの手によって、あなたがずっと言っていた愛と平和な世界が一日も早くくるように、これからもリードしていってください。 療養中も「何もすることがないから明るく引きこもってるんだ。でも結構楽しいです」というメールをもらいました。大好きなご家族と優しい時間を過ごすことができてよかったね。これからもいつも竜平君、百(もも)ちゃんを見守ってください。昨日、私の友人の勘三郎さんとあなたの話をしました。彼は「僕はあの人に会わなくてよかったと思う」と言っていました。「会っていたら、悲しくてやりきれないから。そのぐらいきっとすてきな人だと思うから」と言っていました。本当にその通りです。私なんかよりももっともっと身近にいた人、私なんかよりもっともっとあなたを愛していた人たちの悲しみを思うと言葉もありませんが、でもやっぱり私はあなたに会えてよかったです。あなたのファンになって本当によかったと思っています。 ときどき空の上から「愛しあってるかい」って問いかけて下さい。「OK、ベイビー、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。清志郎さん、本当にお疲れ様でした。そして本当に本当にありがとう。

◆ミュージシャン・甲本ヒロトさんの弔辞
清志郎ーっ。あなたとの思い出にろくなものはございません。突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、何だか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり、レコーディングの作業中にとんちんかんなアドバイスばかり連発するもんで、レコーディングがとどこおり、そのたびに我々は聞こえないふりをするのが必死でした。でも、今思えば、全部冗談だったんだよな。 きょうも、「清志郎、どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」と言うもんだから、「そーか、じゃあ、オレも革ジャン着ていくか」と思ってきたら、何だか浮いてるし。清志郎のまねをすれば浮くのは当然で、でも、あなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。ステージの上の人だったんだな、うん。 一番最近会ったのは、去年の11月、それはザ・フーの来日公演で武道館の、その時はあなたは客席の人でした。ステージの上の清志郎じゃなくて、客席の人でした。たくさんの人が清志郎にあこがれるように、あなたはロックンロールにあこがれていました。僕もそうです。そんな一観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは業界のコネをフルに生かした戦利品とでもいいましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。ちっともあなたは観客席の一人でなかった。僕があまりにうらやましそうにしているので、二枚あったそのうちの一つを僕にくれました。(ポケットを探り)こっちじゃねえや、これだ。ピート・タウンゼントが使っていたピックです。これはもう、返さなくていいね。収めます。ありがとう。一生忘れないよ。短いかもしれないけど、一生忘れない。そんで、ありがとうを言いに来たんです。数々の冗談、ありがとう。いまいち笑えなかったけど。きょうもそうだよ。ひどいよ、この冗談は。そんでね、ありがとうを言いにきました。清志郎ありがとう。それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、それから家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん、どうもありがとう。どうもありがとう。で、あと一つ残るのは、きょうもたくさん外で待っているあなたのファンです。彼らにありがとうは、僕は言いません。僕もその一人だからです。それはあなたが言ってください。
どうもありがとう。ありがとう。
2009-04-23(Thu)

4度目も勝てず内海、泣きじゃくった「悔しいとしか…」

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下を向くと、両目にたまった涙がこぼれ落ちた。ベンチに戻った内海の体は、小刻みに震えていた。1点ビハインドの7回無死一塁で無念の降板。「今日の試合は、どうしても勝ちたかった」ただ、悔しかった。勝ちたい一心だった。アンダーシャツで、白いタオルで何度も涙をぬぐった。その姿は、地上波はなかったが、CS放送などで全国に映し出された。
 4度目の挑戦も報われなかった。2回無死からデントナに左越えソロを献上。6回には味方の失策絡みで1死一、三塁のピンチを招き、川島慶の右犠飛で2点目を許した。7回途中、4安打2失点(自責1)。十分に先発の役目を果たしたが、白星を求める左腕には悔しさが残った。
 「ここまでチャンスをもらっていながら、ふがいないピッチングをしていたので、何とか結果を出したかったんですが…。悔しいとしか言いようがありません」7回、先頭のデントナに左前安打を許し、71球で降板。責任感の強い男は、リードされた状態で降板したことに悔いを残した。
2回無死、デントナに本塁打を打たれて、マウンドを蹴る内海 念願の白星は手に入らなかったが、内海の闘争心は原監督に伝わった。20日には期待を込めて「侍スピリットはないのか」とゲキを飛ばした指揮官はこの日、「本人もかなり強い気持ちでマウンドに上がって、スターターの仕事としては95点」と合格点を与えた。
 5度、先頭打者に出塁されたが、粘りを見せた。2失点で踏みとどまったからこそ、逆転勝利が待っていた。降板直後にベンチで見せた悔し涙を、原監督は「そういう気持ちでやっているということ」と強い覚悟の表れととらえ、「勝ち投手にはならなかったが、この先マウンドに上がれば勝ち星がくると思う」と改めて期待を寄せた。
 試合後の左腕は悔しさを押し殺し、「次、頑張ります」と短い言葉に決意を込めた。今季初勝利へ、次回登板が5度目の挑戦。野球に純粋で白星に貪欲な内海を、勝利の女神は簡単には見放さない。
2009-02-15(Sun)

ダル離脱前に置き土産!中田&吉川熱血指導…日本ハム

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WBC日本代表候補の日本ハム・ダルビッシュ有投手がキャンプの投げ納めを行った。2軍キャンプ地の沖縄・国頭村のブルペンで87球。課題のクイックモーションをこなし、申し分ない打ち上げだった。一方で、吉川らには熱血指導と、チームに“置き土産”も残した。
 最終調整に抜かりはなかった。27球目から34球連続で、今キャンプ中はほとんど練習していなかったクイック投球を試した。そのうち3球は「今がどのレベルにあるかを知りたくて」と、フォームの動き出しから捕手のミットに収まるまでの時間を計測。数値はいずれも1・25〜27秒だった。吉井投手コーチは「平均が1・3秒くらい。いい方でしょう」と説明、エースも「いい練習ができたと思います」と納得顔だ。
 これからチームを1か月半離れることを「変な気持ち」という右腕は、弟分としてかわいがりながら、現在は2軍の3年目左腕・吉川を「何や、そのクソなフォームは!」と一喝。足の上げ方、体重移動など手本を示してみせた。また、紅白戦で三振した中田に対しては、「何で打てへんの? トレーニングしてないからやろ!」とここでも説教。自分がいない間に後輩たちの奮闘を願うからこそ、厳しい口調でゲキを飛ばしたのだった。
 日本代表合宿地の宮崎に入る右腕に、不安はない。あいさつでは、先発の柱が確約されているにもかかわらず、「合宿で代表から落ちないように頑張ります」と周囲を笑わせた。本番に向け「メンバーの実力を見れば上の方にいける。一番上までいきたい」と宣言したダルビッシュ。今度は自身初の「世界一」を手土産に、日本ハムに帰ってくる。
2009-01-21(Wed)

小室哲哉詐欺を認める

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著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺罪に問われた音楽プロデューサー小室哲哉被告は、大阪地裁(杉田宗久裁判長)の初公判で「おおよそ合っている」と述べ、起訴事実を認めた。
 小室被告は同日午後の公判で「被害者に多大なご迷惑をおかけし、おわびしたい。誠意を持って弁済を進めたい」と述べた。
 検察側は冒頭陳述で、小室被告は利息だけで月3000万円の借金返済に追われて資金繰りが破綻し、「目先のことが大事でしょう」と詐欺となると知りながら犯行を進めたことを明らかにした。
 被害が多額で実刑判決も予想されるが、小室被告は判決までに弁済して情状酌量を求める方針。
 裁判長に職業を尋ねられた小室被告は「音楽家」と答えた。
 検察側冒頭陳述によると、1996年ごろの小室被告の年収は10億円あったが、不動産購入や遊興費に費消。2005年には年収が5000万円に減っていた上、〈1〉レコード会社とのプロデュース契約の解約に伴う先払い金返還で10億円〈2〉離婚慰謝料や養育費計7億8000万円―などで約18億円の借金があった。
 その中で、銀行から融資が受けられず、年利24%の高利融資などに手を出した結果、利息だけで月3000万円が必要となり、資金繰りが破綻、犯行に至った。
 起訴状によると、小室被告は、自ら役員を務めるプロダクション「トライバルキックス」監査役木村隆被告=公判前整理手続き中=らと共謀。06年7月、これまでの作品約800曲の著作権をすべて所有しているように装い、10億円で譲渡する契約を兵庫県芦屋市の投資家男性に持ち掛けた上、同年8月に「印税収入が前妻に差し押さえられているので、解除に必要」と言って先払いさせた5億円をだまし取った、とされる。
 杉田裁判長は次回期日を3月12日に指定。第3回で小室被告の被告人質問、第4回で結審する方針を示した。
 この日、小室被告は開廷2時間半前の午前7時半すぎに地裁入り。地裁には61の一般傍聴席を求めて1034人が列をつくった。
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