2009-07-03 Fri
前回、八王子城と滝山城について、少しだけ触れた。
これらのお城の主は、北条家の最後の殿様氏照であったが、八王子城落城のあと切腹して果てた。
その氏照が、いつくしんで庇護した武田のお姫様がいた。
信玄の娘で、『松姫』という。
僕が住んでいる日野や八王子あたりで有名なお菓子といえば、高幡饅頭、歳三もなか、それとも―――?
大して種類はないが、八王子に「松姫もなか」というのがある。
このお菓子、その存在すら知らない人が多いが、その松姫伝説には悲しい物語が多く伝えられている。

松姫もなか
なぜ、ここで「松姫」なのかというと、これが意外にも、直江兼続や上杉景勝、さらには織田信長につながっていたからである。
上杉謙信が死んだのは天正六年(1578)であったが、その後継争いが二人の養子の間で起こった。
一人は景虎であり、もう一人が景勝であった。
この戦を『御館(おだて)の乱』という。
この戦は、景勝側に直江兼続という優秀な武将が活躍して後継争いに幕を閉じたのだが、それにはだいぶ権謀術数を駆使して勝利した
のである。
越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は『竜虎』と呼ばれて、終生に戦い続けて決着がついていない。信州川中島の戦では五度戦った宿敵である。
この二人が死に、それぞれ子の代になって同盟を結んだ。
誰もが耳を疑った。
ありえない話である。
『御館(おだて)の乱』の前哨戦は、圧倒的に景虎側が有利に展開していた。
それは、こうだ。
景虎は、小田原北条家からの養子だから背後に北条が着いている。それに、甲斐の武田家の総領勝頼の正室は景虎の妹であった。
だから、この北条、武田の両軍を敵に回して景勝側は到底戦に勝ち目はなかった。
勝頼は北条の依頼で越後に出陣し、景勝の籠っていた春日山城まで迫った。後は、北条軍の到着を待って景勝を討ち取るだけというところまで事は整っていたのだが、事態が急変した。
北条が来ないのである。
勝頼は、北条からの依頼で戦に出陣したのに、「たばかったな」、馬鹿にするにもほどがあるというわけだ。
そこへ、狡猾なる兼続が動いた。
「我が方と、手を組まれぬか」
なんと敵側から、同盟の提案である。「---------我が上杉は、謙信公以来『義』を重んずる家風でござる。決して同僚を裏切らないことを至上としているのである。そこへいくと、北条はどうか。景虎様を傀儡にして、越後へ勢力を伸ばし、さらに武田領の信州川中島まで手を伸ばすは必定」
戦国は、乱世である。
妻の実家だとはいえ、北条は信用できない。
この度だって、援軍には来ないではないか。
その上、兼続はもっとおいしい条件を突きつけた。
「もし、当方にお味方くだされば、越後の根知城を差し上げましょう。いやいや、そればかりでない。---上野国の上杉領をそなたへ差し上げよう。またさらに、一万両を差し上げたい」とまで、言った。
根知城は、日本海に程近い城であった。
当時の物資輸送は舟運が主流であり、それも日本海側がほとんどで太平洋側ではなかった。この権利を手にできれば、莫大な富をもたらすことができる。海に面していない甲斐の国にいる武田にしてみれば、目から鱗のおいしい話で、
「良い話だ」
勝頼の心が、動いた。
そこにすかさず、兼続は、
「いかがであろう、武田、上杉の両家の同盟の証にひとつの縁組をご提案したいが---」
「------」
何を、藪から棒に。
上杉景勝はすでに24歳になるが、いまだ独身であった。信玄の娘で勝頼の妹の"菊姫"も20歳を超えていた。
「似合いであるとは、思われぬか」と、兼続。
翌天正7年、越後の内乱に決着がついた。
何よりも、武田家との同盟が功を奏し、戦いの帰趨を決めたのだった。
菊姫は、春日山城に輿入れすることになった。
この菊姫に同腹の妹がいた。
松姫という。
「姉上、おめでとうございます。私の分まで、お幸せにおなりください」
この姉妹、数奇な運命を背負っていた。
姉の菊姫は、先に長島願証寺の左堯という人に嫁ぐことになっていたが、破談になっていた。
天正元年(1573)、信玄が信州駒場(こまんば)で病死した。
すると、夫に決まっていた願証寺の左堯が信長に攻め滅ぼされ、婚約が自然消滅になったのである。
妹の松姫は11歳のとき、なんと、織田信長の跡継ぎ信忠との婚約に破れていた。
この婚約は、信長が、武田軍の尾張進出を恐れて懇願したものであった。
信玄側も、信濃全土の平定があったし、何よりも、上杉謙信との戦に専念したいという思惑が一致したのである。
だが、元亀3年、家康との間で『三方が原の戦』が起こり、信長が家康に援軍を送ったことから、武田織田の両家は縁切れとなり、松姫の婚約は解消された。
菊姫、松姫の姉妹はどこへも嫁がぬまま、躑躅(つつじ)ヶ崎館でひっそり暮らしていた。
家督は異母兄の勝頼が継いだが、天正三年長篠の合戦で織田の鉄砲隊に敗れると、武田家の家運は衰退の一途をたどり始めた。そんな中信玄の死から5年後の天正六年の冬に、上杉景勝と菊姫との縁談が持ち上がったのである。
続く。
これらのお城の主は、北条家の最後の殿様氏照であったが、八王子城落城のあと切腹して果てた。
その氏照が、いつくしんで庇護した武田のお姫様がいた。
信玄の娘で、『松姫』という。
僕が住んでいる日野や八王子あたりで有名なお菓子といえば、高幡饅頭、歳三もなか、それとも―――?
大して種類はないが、八王子に「松姫もなか」というのがある。
このお菓子、その存在すら知らない人が多いが、その松姫伝説には悲しい物語が多く伝えられている。

松姫もなか
なぜ、ここで「松姫」なのかというと、これが意外にも、直江兼続や上杉景勝、さらには織田信長につながっていたからである。
上杉謙信が死んだのは天正六年(1578)であったが、その後継争いが二人の養子の間で起こった。
一人は景虎であり、もう一人が景勝であった。
この戦を『御館(おだて)の乱』という。
この戦は、景勝側に直江兼続という優秀な武将が活躍して後継争いに幕を閉じたのだが、それにはだいぶ権謀術数を駆使して勝利した
のである。
越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は『竜虎』と呼ばれて、終生に戦い続けて決着がついていない。信州川中島の戦では五度戦った宿敵である。
この二人が死に、それぞれ子の代になって同盟を結んだ。
誰もが耳を疑った。
ありえない話である。
『御館(おだて)の乱』の前哨戦は、圧倒的に景虎側が有利に展開していた。
それは、こうだ。
景虎は、小田原北条家からの養子だから背後に北条が着いている。それに、甲斐の武田家の総領勝頼の正室は景虎の妹であった。
だから、この北条、武田の両軍を敵に回して景勝側は到底戦に勝ち目はなかった。
勝頼は北条の依頼で越後に出陣し、景勝の籠っていた春日山城まで迫った。後は、北条軍の到着を待って景勝を討ち取るだけというところまで事は整っていたのだが、事態が急変した。
北条が来ないのである。
勝頼は、北条からの依頼で戦に出陣したのに、「たばかったな」、馬鹿にするにもほどがあるというわけだ。
そこへ、狡猾なる兼続が動いた。
「我が方と、手を組まれぬか」
なんと敵側から、同盟の提案である。「---------我が上杉は、謙信公以来『義』を重んずる家風でござる。決して同僚を裏切らないことを至上としているのである。そこへいくと、北条はどうか。景虎様を傀儡にして、越後へ勢力を伸ばし、さらに武田領の信州川中島まで手を伸ばすは必定」
戦国は、乱世である。
妻の実家だとはいえ、北条は信用できない。
この度だって、援軍には来ないではないか。
その上、兼続はもっとおいしい条件を突きつけた。
「もし、当方にお味方くだされば、越後の根知城を差し上げましょう。いやいや、そればかりでない。---上野国の上杉領をそなたへ差し上げよう。またさらに、一万両を差し上げたい」とまで、言った。
根知城は、日本海に程近い城であった。
当時の物資輸送は舟運が主流であり、それも日本海側がほとんどで太平洋側ではなかった。この権利を手にできれば、莫大な富をもたらすことができる。海に面していない甲斐の国にいる武田にしてみれば、目から鱗のおいしい話で、
「良い話だ」
勝頼の心が、動いた。
そこにすかさず、兼続は、
「いかがであろう、武田、上杉の両家の同盟の証にひとつの縁組をご提案したいが---」
「------」
何を、藪から棒に。
上杉景勝はすでに24歳になるが、いまだ独身であった。信玄の娘で勝頼の妹の"菊姫"も20歳を超えていた。
「似合いであるとは、思われぬか」と、兼続。
翌天正7年、越後の内乱に決着がついた。
何よりも、武田家との同盟が功を奏し、戦いの帰趨を決めたのだった。
菊姫は、春日山城に輿入れすることになった。
この菊姫に同腹の妹がいた。
松姫という。
「姉上、おめでとうございます。私の分まで、お幸せにおなりください」
この姉妹、数奇な運命を背負っていた。
姉の菊姫は、先に長島願証寺の左堯という人に嫁ぐことになっていたが、破談になっていた。
天正元年(1573)、信玄が信州駒場(こまんば)で病死した。
すると、夫に決まっていた願証寺の左堯が信長に攻め滅ぼされ、婚約が自然消滅になったのである。
妹の松姫は11歳のとき、なんと、織田信長の跡継ぎ信忠との婚約に破れていた。
この婚約は、信長が、武田軍の尾張進出を恐れて懇願したものであった。
信玄側も、信濃全土の平定があったし、何よりも、上杉謙信との戦に専念したいという思惑が一致したのである。
だが、元亀3年、家康との間で『三方が原の戦』が起こり、信長が家康に援軍を送ったことから、武田織田の両家は縁切れとなり、松姫の婚約は解消された。
菊姫、松姫の姉妹はどこへも嫁がぬまま、躑躅(つつじ)ヶ崎館でひっそり暮らしていた。
家督は異母兄の勝頼が継いだが、天正三年長篠の合戦で織田の鉄砲隊に敗れると、武田家の家運は衰退の一途をたどり始めた。そんな中信玄の死から5年後の天正六年の冬に、上杉景勝と菊姫との縁談が持ち上がったのである。
続く。
2009-06-30 Tue
僕の住んでいる日野市日野台は中央高速道路の八王子インターのすぐ近くである。
このインターの程近いところに滝山街道が通っていて、昔ここに滝山城というお城があった。
僕は、歴史を研究している一人として、このお城や八王子城についてまったく知らないまま過ごすのも嫌だから、いずれは調べてみようと思っていたのだが、そのときが、変なきっかけでやってきた。
最近、僕の住む多摩地区で、公共機関などからなぜか歴史に関する講演依頼が増えてきている。
大河ドラマの影響ばかりではないだろうが、『歴女』という造語もあるくらいだから、今歴史が(特に戦国物か)一種のブームなのかもしれない。
どう言う訳か、戦国武将にあこがれる女性が多いらしい。
それも、信長、秀吉、家康などのいわゆる大スターではなくて、真田幸村や石田三成、今はやりの直江兼続、前田慶次などこれまであまり日向になっていない人たちだ。
僕は、ただ平坦にそれらの武将たちを研究してみても面白くないから、自分らになんらか関係のあるところで結びつけてお話したいと思ってきた。
沖田総司の出自を思い切り追いかけているのも、もしかして、そのような想いからかもしれない。
だって、彼が、もうほとんど日野の出であることは疑う余地のないほど物的証拠はあるのだから、そう言いたいのだが、最後の確信がない。
だから、懸命に探している。
今度の直江兼続にしても、何か、この多摩地区に関係がないかなと探していたのは、本当のところだ。
ある訳がない。
だって、あの人たち、越後の出身で、後に会津、米沢に住んだ人なのだから。
もう一人の傾奇者前田慶次にしても、今の名古屋あたりの出身で前田利家の甥に当たるから、金沢に住んでその後は京都、最後は、兼続と景勝を慕って会津、米沢だ。
でも、よくよく考えてみると、天正18年(1590)秀吉が関東に侵略したときに、加賀の前田家も会津の上杉軍も真田昌幸軍も秀吉方について、小田原の北条氏照を攻めている。
このとき、天正18年6月23日早朝である。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸らによって『八王子城』は攻撃を受け落城したとなっているから、上杉の直江兼続は確実に参加している。そして、前田の慶次などがその攻撃に加わっていても不思議はない。
すると、この二人は、上杉景勝とともに八王子にきていたことになる。
八王子城の位置関係は、今で言うと、大変山奥で最近開通した圏央道のすぐ脇にある。もう人が近寄らないような山梨県との県境で、どうしてこんなところにお城があったのだろうと、首を傾げたくなるようなところだ。
尤も、滝山城だって今となっては似たようなもんだが、両方とも、今の八王子市市街とは離れているからそう感じるのかもしれない。
(地図・右上に滝山、左下に八王子城、僕の家は右下である)

八王子城は、北条氏照が先の滝山城を廃城にして築城したとあり、天正12~15年ごろだという。
(八王子城の石垣跡)

滝山城は、大永元年(1521)関東管領山内上杉氏の家臣・大石定重が築城した。北条氏康・綱成が川越城の戦いで上杉朝定を破った為、のち北条氏へ明け渡されたものである。その後、北条氏照が城主となるが、防御に適した八王子城を築城した事により廃城となる。
(滝山城の空堀)

小田原城で、八王子城の悲報を聞いた城主・北条氏照は、床を叩いて号泣したという。その真偽は不明だが、自身の築いた八王子城と城主無しで討ち死にしていった家臣・女子供らを想うと、彼の落胆は想像を絶する。氏照はその後、兄・氏政ともに切腹し、小田原伝心庵に埋葬された。
―――続く。
このインターの程近いところに滝山街道が通っていて、昔ここに滝山城というお城があった。
僕は、歴史を研究している一人として、このお城や八王子城についてまったく知らないまま過ごすのも嫌だから、いずれは調べてみようと思っていたのだが、そのときが、変なきっかけでやってきた。
最近、僕の住む多摩地区で、公共機関などからなぜか歴史に関する講演依頼が増えてきている。
大河ドラマの影響ばかりではないだろうが、『歴女』という造語もあるくらいだから、今歴史が(特に戦国物か)一種のブームなのかもしれない。
どう言う訳か、戦国武将にあこがれる女性が多いらしい。
それも、信長、秀吉、家康などのいわゆる大スターではなくて、真田幸村や石田三成、今はやりの直江兼続、前田慶次などこれまであまり日向になっていない人たちだ。
僕は、ただ平坦にそれらの武将たちを研究してみても面白くないから、自分らになんらか関係のあるところで結びつけてお話したいと思ってきた。
沖田総司の出自を思い切り追いかけているのも、もしかして、そのような想いからかもしれない。
だって、彼が、もうほとんど日野の出であることは疑う余地のないほど物的証拠はあるのだから、そう言いたいのだが、最後の確信がない。
だから、懸命に探している。
今度の直江兼続にしても、何か、この多摩地区に関係がないかなと探していたのは、本当のところだ。
ある訳がない。
だって、あの人たち、越後の出身で、後に会津、米沢に住んだ人なのだから。
もう一人の傾奇者前田慶次にしても、今の名古屋あたりの出身で前田利家の甥に当たるから、金沢に住んでその後は京都、最後は、兼続と景勝を慕って会津、米沢だ。
でも、よくよく考えてみると、天正18年(1590)秀吉が関東に侵略したときに、加賀の前田家も会津の上杉軍も真田昌幸軍も秀吉方について、小田原の北条氏照を攻めている。
このとき、天正18年6月23日早朝である。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸らによって『八王子城』は攻撃を受け落城したとなっているから、上杉の直江兼続は確実に参加している。そして、前田の慶次などがその攻撃に加わっていても不思議はない。
すると、この二人は、上杉景勝とともに八王子にきていたことになる。
八王子城の位置関係は、今で言うと、大変山奥で最近開通した圏央道のすぐ脇にある。もう人が近寄らないような山梨県との県境で、どうしてこんなところにお城があったのだろうと、首を傾げたくなるようなところだ。
尤も、滝山城だって今となっては似たようなもんだが、両方とも、今の八王子市市街とは離れているからそう感じるのかもしれない。
(地図・右上に滝山、左下に八王子城、僕の家は右下である)

八王子城は、北条氏照が先の滝山城を廃城にして築城したとあり、天正12~15年ごろだという。
(八王子城の石垣跡)

滝山城は、大永元年(1521)関東管領山内上杉氏の家臣・大石定重が築城した。北条氏康・綱成が川越城の戦いで上杉朝定を破った為、のち北条氏へ明け渡されたものである。その後、北条氏照が城主となるが、防御に適した八王子城を築城した事により廃城となる。
(滝山城の空堀)

小田原城で、八王子城の悲報を聞いた城主・北条氏照は、床を叩いて号泣したという。その真偽は不明だが、自身の築いた八王子城と城主無しで討ち死にしていった家臣・女子供らを想うと、彼の落胆は想像を絶する。氏照はその後、兄・氏政ともに切腹し、小田原伝心庵に埋葬された。
―――続く。
2009-06-22 Mon
直江兼続や前田慶次について、書かなければいけない。
でも、最近、新選組関連を書いていないし、いけないなあと思ってもいた。
6月13日に、“総司忌関連のツアー”の打上げに参加したので、そのことを書く。
(僕は法事が入っていて、その日はなんと不思議なことに、総司終焉の碑が立っている今戸神社横の「慶養寺」というところで49日の法要に出席していたから、夕方からの打上げに出席した)
それは、日野宿文書検討会が企画・主催した沖田ツアーであった。

このツアーの行程はまず最初に、井上本家や分家があり沖田ミツの本籍がある日野の北原(旧名)を出発して、僕らが総司の母親の出身として信じて疑わない宮原家を見学する。
次に宮原から数分先で、日野駅近くの宮原家の菩提寺薬王寺を見学し、多摩川沿いを散歩して立日橋を渡って立川市に入る。
ココは柴崎町であり、沖田家が明治に入ってから住んだところだ。
ココに普済寺という寺院があり、そこに沖田家のお墓がある。
(JR中央線で、立川から日野に向かうと多摩川を渡るが、その手前の丘の上に見える)
本家の墓は麻布の専称寺にあるので、分家関係の寺だ。
ただ、不思議なことに、ココにも墓石に『大野』の文字が彫られている。
総司の戒名の両脇に、俗名大野源次郎の戒名が彫られているのは知られていることだが、なんと、ココの分家の墓にも彫られていた。
普済寺にある沖田分家の墓
向かって左の墓碑に「大野氏」と刻んである。
この大野さんについても調査を継続しているが、未だにどの人か判明していない。
ツアーはココで終わりで、その後、僕は立川駅で合流した。久しぶりに、沖田や新選組の話に花が咲き、気分の良い宴を味わうことが出来た。
今回のタイトルに『新たな発見』としたので、そのことを書かなければいけない。
本当は、『大発見』をしたいのだが、かなり難しいことだ。それはとりもなおさず、総司の「母親探し」のことである。これは、僕が死ぬまでの間に、何とか解明したいと願っているーーー。
新選組関連、特に沖田総司のもので、これから新しい発見といってもなかなか困難なのだが、それでも、少しずつの進展はある。
僕は、日野にある資料の中でも、第1級のものは井上松五郎の「旅日記」だと思っている。
アレは、松五郎が文久3年2月13日に、14代将軍家茂の随行で上洛したとき、5日前に出発していた浪士組と京都で連日顔を合わせて、交流をしていたことが書かれているからだ。
近藤や土方歳三、総司、源三郎などと連日のように酒を酌み交わしたり、悩み事を聞いてやったりしている様が紹介されていて、嘘偽りを感じさせない、信憑性の高い資料だからだ。
と言うことは、新選組関連の資料には、どうももう1つ信用できないものが多いと感ずるからである。
申し訳ないが、永倉新八の二冊の本も誇張や記憶違い、場合によってははっきり誤認といえるものまであるから、その判断をしないといけないし、あの子母沢寛だって作り話が多い。
28通残っている歳三の手紙にしても、真実を書いている部分とそうでないところとあるように思える。
近藤さんの手紙だって、きっとそうだろう。
手紙って、読むもの達を安心させるため、また自分を大きく見せるために随分と誇張や偽りを平気で書けるものなのだ。土方歳三が女性たちにもてたのは頷けるが、文久三年はまだ、祇園や上七軒、新地や島原などで連日茶屋遊びにふけるほど豊かだったとは思えない。
松五郎の日記のほかに、もう1つ1級のものがある。
それは井上泰助の手紙の下書きである。
これは、泰助がミツに宛てて書いたもので、実際に投函されたのかどうかはわからないが、両家の関係がリアルに述べられている。
これは、両家の交わりの経緯を確認しているものだから、嘘偽りを書いても意味がない。
真実を述べて、ミツと泰助との間で確認しているものだ。ご存じない方もいるだろうし、そんなに長いものでもないので、ココに載せる。

沖田ご祖母様よくよくお考えくだされ
私が言うまでもありませんが ご祖母様の父たるものも私宅分家井上惣蔵なるものの弟 ご祖母様の連れ合い亡林太郎殿も井上宗蔵なるものの弟にて
姓は沖田家を相続しているが骨水は井上の交合するその旧縁により 亡林太郎殿 倅(せがれ)芳次郎殿も同じにて
宮原久五郎殿娘 梅殿が私の妹花を貫情結縁するつもりでおいでになったところ より悪くして帰郷することになった後 林太郎殿没後再度母上様本宿の私の姉方より(松本捨助の妻モトか)申し込み 姉方より相談に相成り 私も旧縁を察し また沖田宗司君にも 私新選組に在るとき種々お世話になりました
その順序によって 花なるものを宮原久五郎 井上善助両媒酌人をもって差し遣わし… …
この手紙、どういうわけか、後半がない。
切り取られたものか、書くのを止めたのかわからない。それに、解釈しづらい部分もある。
ミツの夫林太郎が死んだのが明治16年2月3日で、長男芳次郎が花と結婚したのが19年10月28日だから、その間にこの手紙は書かれたもので、疑う余地がない。
この手紙の最も価値のあるところは、ミツの父とミツの夫を特定しているところである。
それが、2代続いて井上分家から入っていると言うのだ。
これは、これまでにも様々に指摘されてきた。
僕は、今回、最後の部分の媒酌人に着目した。
一人は宮原久五郎で、僕のブログの左脇にその写真が載っているし、過去に書いたから参照してもらいたい(きっと、総司の母の弟、宮原家にそう伝わる)。
もう一人、井上善助と言う人である。
この人、井上姓だからその分家筋に当たるのだろうと推測は出来る。
様々に調査してみたら、ようやく発見することが出来た。
この人、
天保11年7月1日生まれで、住所は日野宿2460番地であった。新旧の番地を照合してみたら、なんと、井上本家のすぐ横の家で、それに、この善助さん、元は柴崎村の出で井上に養子に入ったのだが、柴崎村は、明治に入って沖田家が住んだところだ。
それに、宮原のおばあさんが「ウチは、江戸の頃は柴崎だった」といっていた。
なんだか縁がある。
(今の宮原家は、多摩川のすぐ南にある。江戸の頃は何回かこの玉川が氾濫して、その流れが変化している。川が宮原家の南にあったことがあると言う。と言うことは、宮原家はもともと川の北、そこは柴崎村なのである)
二人の媒酌人が、それぞれ、井上・宮原・沖田に関係のある間柄なのである。
実は、因縁話はもっとあるのだが、長くなるので、次回。
でも、最近、新選組関連を書いていないし、いけないなあと思ってもいた。
6月13日に、“総司忌関連のツアー”の打上げに参加したので、そのことを書く。
(僕は法事が入っていて、その日はなんと不思議なことに、総司終焉の碑が立っている今戸神社横の「慶養寺」というところで49日の法要に出席していたから、夕方からの打上げに出席した)
それは、日野宿文書検討会が企画・主催した沖田ツアーであった。

このツアーの行程はまず最初に、井上本家や分家があり沖田ミツの本籍がある日野の北原(旧名)を出発して、僕らが総司の母親の出身として信じて疑わない宮原家を見学する。
次に宮原から数分先で、日野駅近くの宮原家の菩提寺薬王寺を見学し、多摩川沿いを散歩して立日橋を渡って立川市に入る。
ココは柴崎町であり、沖田家が明治に入ってから住んだところだ。
ココに普済寺という寺院があり、そこに沖田家のお墓がある。
(JR中央線で、立川から日野に向かうと多摩川を渡るが、その手前の丘の上に見える)
本家の墓は麻布の専称寺にあるので、分家関係の寺だ。
ただ、不思議なことに、ココにも墓石に『大野』の文字が彫られている。
総司の戒名の両脇に、俗名大野源次郎の戒名が彫られているのは知られていることだが、なんと、ココの分家の墓にも彫られていた。
普済寺にある沖田分家の墓
向かって左の墓碑に「大野氏」と刻んである。
この大野さんについても調査を継続しているが、未だにどの人か判明していない。
ツアーはココで終わりで、その後、僕は立川駅で合流した。久しぶりに、沖田や新選組の話に花が咲き、気分の良い宴を味わうことが出来た。
今回のタイトルに『新たな発見』としたので、そのことを書かなければいけない。
本当は、『大発見』をしたいのだが、かなり難しいことだ。それはとりもなおさず、総司の「母親探し」のことである。これは、僕が死ぬまでの間に、何とか解明したいと願っているーーー。
新選組関連、特に沖田総司のもので、これから新しい発見といってもなかなか困難なのだが、それでも、少しずつの進展はある。
僕は、日野にある資料の中でも、第1級のものは井上松五郎の「旅日記」だと思っている。
アレは、松五郎が文久3年2月13日に、14代将軍家茂の随行で上洛したとき、5日前に出発していた浪士組と京都で連日顔を合わせて、交流をしていたことが書かれているからだ。
近藤や土方歳三、総司、源三郎などと連日のように酒を酌み交わしたり、悩み事を聞いてやったりしている様が紹介されていて、嘘偽りを感じさせない、信憑性の高い資料だからだ。
と言うことは、新選組関連の資料には、どうももう1つ信用できないものが多いと感ずるからである。
申し訳ないが、永倉新八の二冊の本も誇張や記憶違い、場合によってははっきり誤認といえるものまであるから、その判断をしないといけないし、あの子母沢寛だって作り話が多い。
28通残っている歳三の手紙にしても、真実を書いている部分とそうでないところとあるように思える。
近藤さんの手紙だって、きっとそうだろう。
手紙って、読むもの達を安心させるため、また自分を大きく見せるために随分と誇張や偽りを平気で書けるものなのだ。土方歳三が女性たちにもてたのは頷けるが、文久三年はまだ、祇園や上七軒、新地や島原などで連日茶屋遊びにふけるほど豊かだったとは思えない。
松五郎の日記のほかに、もう1つ1級のものがある。
それは井上泰助の手紙の下書きである。
これは、泰助がミツに宛てて書いたもので、実際に投函されたのかどうかはわからないが、両家の関係がリアルに述べられている。
これは、両家の交わりの経緯を確認しているものだから、嘘偽りを書いても意味がない。
真実を述べて、ミツと泰助との間で確認しているものだ。ご存じない方もいるだろうし、そんなに長いものでもないので、ココに載せる。

沖田ご祖母様よくよくお考えくだされ
私が言うまでもありませんが ご祖母様の父たるものも私宅分家井上惣蔵なるものの弟 ご祖母様の連れ合い亡林太郎殿も井上宗蔵なるものの弟にて
姓は沖田家を相続しているが骨水は井上の交合するその旧縁により 亡林太郎殿 倅(せがれ)芳次郎殿も同じにて
宮原久五郎殿娘 梅殿が私の妹花を貫情結縁するつもりでおいでになったところ より悪くして帰郷することになった後 林太郎殿没後再度母上様本宿の私の姉方より(松本捨助の妻モトか)申し込み 姉方より相談に相成り 私も旧縁を察し また沖田宗司君にも 私新選組に在るとき種々お世話になりました
その順序によって 花なるものを宮原久五郎 井上善助両媒酌人をもって差し遣わし… …
この手紙、どういうわけか、後半がない。
切り取られたものか、書くのを止めたのかわからない。それに、解釈しづらい部分もある。
ミツの夫林太郎が死んだのが明治16年2月3日で、長男芳次郎が花と結婚したのが19年10月28日だから、その間にこの手紙は書かれたもので、疑う余地がない。
この手紙の最も価値のあるところは、ミツの父とミツの夫を特定しているところである。
それが、2代続いて井上分家から入っていると言うのだ。
これは、これまでにも様々に指摘されてきた。
僕は、今回、最後の部分の媒酌人に着目した。
一人は宮原久五郎で、僕のブログの左脇にその写真が載っているし、過去に書いたから参照してもらいたい(きっと、総司の母の弟、宮原家にそう伝わる)。
もう一人、井上善助と言う人である。
この人、井上姓だからその分家筋に当たるのだろうと推測は出来る。
様々に調査してみたら、ようやく発見することが出来た。
この人、
天保11年7月1日生まれで、住所は日野宿2460番地であった。新旧の番地を照合してみたら、なんと、井上本家のすぐ横の家で、それに、この善助さん、元は柴崎村の出で井上に養子に入ったのだが、柴崎村は、明治に入って沖田家が住んだところだ。
それに、宮原のおばあさんが「ウチは、江戸の頃は柴崎だった」といっていた。
なんだか縁がある。
(今の宮原家は、多摩川のすぐ南にある。江戸の頃は何回かこの玉川が氾濫して、その流れが変化している。川が宮原家の南にあったことがあると言う。と言うことは、宮原家はもともと川の北、そこは柴崎村なのである)
二人の媒酌人が、それぞれ、井上・宮原・沖田に関係のある間柄なのである。
実は、因縁話はもっとあるのだが、長くなるので、次回。







