2009-11-24 Tue
“松姫”と初代会津藩主“保科正之”
―――それは、お江与の方の嫉妬から始まった―――
この18日から、近隣のK市公民館で5回連続講座を始めている。
最初の2回が『松姫・菊姫』関連のお話で、後半の3回が『新選組』である。
改めて、新選組の歴史を紐解いてみた。
すると、以前からの疑問に再びぶち当たった。
文久二年に幕府が浪士組を募集したのだが、その任務に当たったのは、当時政事総裁職にあった越前福井藩主の松平慶永だという。
それは、出羽庄内の郷士清河八郎の建策によるものらしい。
このとき、清河は幕府のお尋ね者になっていて捕まれば打ち首ものだったはずだが、何故こういう者の提案を受け入れたのか、不思議である。
清河の親友で山岡鉄太郎という北辰一刀流の剣士がいた。この人は幕臣で、清河とは「虎尾(こび)の会」のメンバーで親友である。
この山岡が、幕閣との間に入って周旋したのかもしれない。
その証拠に、実際浪士組が京都に上洛する際、山岡が幕府から松岡萬とともに取締役として参加していた。
ある作家は、清河の建策の理念として「それ非常の変に処する者、必ず非常の士を用う、故によく非常の大功を成すなり」といい、その解釈は、
《浪士は浪士によって鎮圧するものだ。思ってもみない働きをするものだ》
ということらしい。
でも、この『非常の変』というのは『浪士』と決め付けるべきなのか疑問を持つ。
外国船が現れて開国を迫られ、通商条約まで無勅許で結ばれてしまった現状を憂え、攘夷の実行が必要であるという非常事態を言っているのではないかとも取れる。
でも、幕府に進言するという意味から、清河も自らの秘策は秘密にして、京都で暴れている天誅浪士の鎮圧といったかもしれないがーーー。
また、清河は、攘夷・教育・大赦の『急務三策』を迫って認めさせたとも伝わっている。
この大赦が通って、自分も芹沢も自由の身になったということか。
この浪士隊、文久三年2月8日に江戸の小石川伝通院を出発して23日に京都の三条大橋に着いている。
その後、事情があって幕府は直ちに、江戸へ帰還命令を出している。江戸を出発した234名の浪士の殆どが戻ったのだが、どうしても否だと京都にい続けたのが17名いた。
この17人と現地から参加した7名24人が、後の新選組の原型を作ることになる。
江戸へ帰ったものたちは、約束どおり直ちに幕臣として三十俵二人扶持で抱えられた。
京都に残ったものたちは、壬生の百姓家や寺に分宿していたが、勝手な行動をとったわけで浪人になるしか手立てはなかったし、壬生浪人、“壬生狼”と市民から言われた。
3月12日だと思うが、京都守護職を務めていた会津藩主松平容保に芹澤鴨や近藤勇たちは「自分たちを雇って欲しい」と、お願いに行き、タイミングよくそれがうまくいった。
何故か。
そもそも、幕府が23万石の大藩である会津松平を京都の警護に当たらせるなど、江戸時代を通じてありえないこをを命じた背景には、当時流行っていた『天誅』騒ぎにある。
文久二年7月始まった攘夷派のこの壮絶なるテロには幕府も手を焼き、中位の大名がその職責に当たっていた所司代は勿論、臨時に設けた大大名の京都守護職でも、犯人を挙げることが出来ずに万策尽きていたのである。
この期に及んでは、『毒には、毒を』で望むしかないと容保は考えていたに違いない。
天誅と称して暗殺を繰り返す犯人たちの多くは、薩摩や長州、土佐などを始め西国の雄藩を脱藩した浪士や、藩士そのもの達だった。
守護職は会津藩だから、藩としても相手が外様とはいえ、大きな藩とのトラブルに巻き込まれたくないという事情もあった。
でも、幕府の威信もあったから、いつまでも放置は出来ない。直ちに何らかの対策が必要だった。
そこで、『目には目をのようなテロ集団』が欲しかった。
そこへ、近藤たちが雇って欲しいと懇願しに行ったのだから、渡りに船である。
これは僕の推測だが、多分そう間違っていないと確信している。
その証拠に、この話が決まった文久三年3月12日以降、この月のうちだけでも何回も出動している。
近藤と土方が郷里に出している手紙で、それは明らかである。
「身を守る装備がないから、直ちに鎖帷子を送ってくれ」とか、「刀を送ってくれ」とかの内容が書かれている。
何度も出動して、刀がボロボロになってしまったというのである。
このあたりの手紙の内容に対しても、多少の疑問もある。
3月12日に雇われて、26日付の近藤の郷里への手紙である。
この短期間にそれほど乱闘騒ぎや決闘が多かったのか、裏付ける事件も伝わっていない。
でも、自分たちは京都で活躍しているから、ご安心をというひとつのポーズだったのかもしれない。
また、この頃はまだ金がないから自ら武器弾薬類を調達は出来なかったし、豪商をゆすって借金するほど信用もなかった。
佐藤彦五郎や小島鹿之助、八王子の谷合弥七などに、恵んでもらうしかなかった。
ところで、会津藩主の容保は松平姓で徳川家の親戚筋に当たる。
この先祖は代々松平を名乗っているのは当たり前だが、初代だけは保科正之で保科姓である。
何故か。
正之自身が二代将軍の秀忠の落し子であるのは事実だが、彼は五歳の当時高遠藩の保科家に預けられた。そして立派に成人して、元服した後、晴れて実父の秀忠に面会することが出来た。
彼は生涯を通して、幼少の頃育ててくれた保科家の恩を忘れず自分の代だけは保科を名乗るとして、家光の改名の勧めを断ったのである。
どうして将軍の子を預けなければならなかったのか、それは正室お江与の方の嫉妬にあった。彼女は異常なほどやきもち焼きで、秀忠に一切側室を許さなかった。
それでも二代将軍は内緒で大奥の女中たちに手をつけた。
ある時、お志津という女中が身ごもってしまった。
「どうしよう」
このままでは、お江与の方に知れてしまう。そこで側近の土井利勝をはじめ数人で密議を交わし、信頼の出来るところにこの女中を預け、無事に生ませて養育させようと図った。
妊婦を預け、無事に誕生させるように頼んだ先は、武田信玄の息女で穴山梅雪に嫁いでいた見性院であった。見性院はその妊婦をかつて織田信忠(信長の嫡男)の許婚で、今は出家して信松尼として八王子の寺に住む妹の“松姫”に預けることにした。
松姫には、武田家が織田軍に天正10年に滅ぼされた折、高遠城を抜け出て三人の幼い姫を連れて逃避行をし、ようやくたどり着いた八王子でこの子達を立派に育て上げた実績がある。
松は、その子を凛々しく利発に育てたが、5歳になった折に、もと自分が住んでいた高遠藩に養子として送ることにした。この頃は(1615年当時)保科家が高遠城の城主であったので保科正之という名がつき、のち3万石の大名になる。
これは伝説であるが、仔細はともかく大方信ぜられる。
正之は、18歳になった折、実父の秀忠に感激の面会をした後20万石で出羽の国の大名になった。
その後3代将軍になった家光にも気に入られ、会津藩23万石の藩主に任ぜられたのであった。
この正之は、開府当時の三大名君として挙げられ、水戸光圀、池田光政と並び称される。
僕が講演を行ったK市を流れ、現在でも東京や多摩地区に住む人々に癒しをもたらしている『玉川上水』は、保科正之の決断で43キロの道程を8月で開削したものであり、設計や工事は玉川兄弟が引き受けた。
これにより、世界最大100万都市の江戸の住民の飲み水を、神田上水と合わせて確保したのである。
―――それは、お江与の方の嫉妬から始まった―――
この18日から、近隣のK市公民館で5回連続講座を始めている。
最初の2回が『松姫・菊姫』関連のお話で、後半の3回が『新選組』である。
改めて、新選組の歴史を紐解いてみた。
すると、以前からの疑問に再びぶち当たった。
文久二年に幕府が浪士組を募集したのだが、その任務に当たったのは、当時政事総裁職にあった越前福井藩主の松平慶永だという。
それは、出羽庄内の郷士清河八郎の建策によるものらしい。
このとき、清河は幕府のお尋ね者になっていて捕まれば打ち首ものだったはずだが、何故こういう者の提案を受け入れたのか、不思議である。
清河の親友で山岡鉄太郎という北辰一刀流の剣士がいた。この人は幕臣で、清河とは「虎尾(こび)の会」のメンバーで親友である。
この山岡が、幕閣との間に入って周旋したのかもしれない。
その証拠に、実際浪士組が京都に上洛する際、山岡が幕府から松岡萬とともに取締役として参加していた。
ある作家は、清河の建策の理念として「それ非常の変に処する者、必ず非常の士を用う、故によく非常の大功を成すなり」といい、その解釈は、
《浪士は浪士によって鎮圧するものだ。思ってもみない働きをするものだ》
ということらしい。
でも、この『非常の変』というのは『浪士』と決め付けるべきなのか疑問を持つ。
外国船が現れて開国を迫られ、通商条約まで無勅許で結ばれてしまった現状を憂え、攘夷の実行が必要であるという非常事態を言っているのではないかとも取れる。
でも、幕府に進言するという意味から、清河も自らの秘策は秘密にして、京都で暴れている天誅浪士の鎮圧といったかもしれないがーーー。
また、清河は、攘夷・教育・大赦の『急務三策』を迫って認めさせたとも伝わっている。
この大赦が通って、自分も芹沢も自由の身になったということか。
この浪士隊、文久三年2月8日に江戸の小石川伝通院を出発して23日に京都の三条大橋に着いている。
その後、事情があって幕府は直ちに、江戸へ帰還命令を出している。江戸を出発した234名の浪士の殆どが戻ったのだが、どうしても否だと京都にい続けたのが17名いた。
この17人と現地から参加した7名24人が、後の新選組の原型を作ることになる。
江戸へ帰ったものたちは、約束どおり直ちに幕臣として三十俵二人扶持で抱えられた。
京都に残ったものたちは、壬生の百姓家や寺に分宿していたが、勝手な行動をとったわけで浪人になるしか手立てはなかったし、壬生浪人、“壬生狼”と市民から言われた。
3月12日だと思うが、京都守護職を務めていた会津藩主松平容保に芹澤鴨や近藤勇たちは「自分たちを雇って欲しい」と、お願いに行き、タイミングよくそれがうまくいった。
何故か。
そもそも、幕府が23万石の大藩である会津松平を京都の警護に当たらせるなど、江戸時代を通じてありえないこをを命じた背景には、当時流行っていた『天誅』騒ぎにある。
文久二年7月始まった攘夷派のこの壮絶なるテロには幕府も手を焼き、中位の大名がその職責に当たっていた所司代は勿論、臨時に設けた大大名の京都守護職でも、犯人を挙げることが出来ずに万策尽きていたのである。
この期に及んでは、『毒には、毒を』で望むしかないと容保は考えていたに違いない。
天誅と称して暗殺を繰り返す犯人たちの多くは、薩摩や長州、土佐などを始め西国の雄藩を脱藩した浪士や、藩士そのもの達だった。
守護職は会津藩だから、藩としても相手が外様とはいえ、大きな藩とのトラブルに巻き込まれたくないという事情もあった。
でも、幕府の威信もあったから、いつまでも放置は出来ない。直ちに何らかの対策が必要だった。
そこで、『目には目をのようなテロ集団』が欲しかった。
そこへ、近藤たちが雇って欲しいと懇願しに行ったのだから、渡りに船である。
これは僕の推測だが、多分そう間違っていないと確信している。
その証拠に、この話が決まった文久三年3月12日以降、この月のうちだけでも何回も出動している。
近藤と土方が郷里に出している手紙で、それは明らかである。
「身を守る装備がないから、直ちに鎖帷子を送ってくれ」とか、「刀を送ってくれ」とかの内容が書かれている。
何度も出動して、刀がボロボロになってしまったというのである。
このあたりの手紙の内容に対しても、多少の疑問もある。
3月12日に雇われて、26日付の近藤の郷里への手紙である。
この短期間にそれほど乱闘騒ぎや決闘が多かったのか、裏付ける事件も伝わっていない。
でも、自分たちは京都で活躍しているから、ご安心をというひとつのポーズだったのかもしれない。
また、この頃はまだ金がないから自ら武器弾薬類を調達は出来なかったし、豪商をゆすって借金するほど信用もなかった。
佐藤彦五郎や小島鹿之助、八王子の谷合弥七などに、恵んでもらうしかなかった。
ところで、会津藩主の容保は松平姓で徳川家の親戚筋に当たる。
この先祖は代々松平を名乗っているのは当たり前だが、初代だけは保科正之で保科姓である。
何故か。
正之自身が二代将軍の秀忠の落し子であるのは事実だが、彼は五歳の当時高遠藩の保科家に預けられた。そして立派に成人して、元服した後、晴れて実父の秀忠に面会することが出来た。
彼は生涯を通して、幼少の頃育ててくれた保科家の恩を忘れず自分の代だけは保科を名乗るとして、家光の改名の勧めを断ったのである。
どうして将軍の子を預けなければならなかったのか、それは正室お江与の方の嫉妬にあった。彼女は異常なほどやきもち焼きで、秀忠に一切側室を許さなかった。
それでも二代将軍は内緒で大奥の女中たちに手をつけた。
ある時、お志津という女中が身ごもってしまった。
「どうしよう」
このままでは、お江与の方に知れてしまう。そこで側近の土井利勝をはじめ数人で密議を交わし、信頼の出来るところにこの女中を預け、無事に生ませて養育させようと図った。
妊婦を預け、無事に誕生させるように頼んだ先は、武田信玄の息女で穴山梅雪に嫁いでいた見性院であった。見性院はその妊婦をかつて織田信忠(信長の嫡男)の許婚で、今は出家して信松尼として八王子の寺に住む妹の“松姫”に預けることにした。
松姫には、武田家が織田軍に天正10年に滅ぼされた折、高遠城を抜け出て三人の幼い姫を連れて逃避行をし、ようやくたどり着いた八王子でこの子達を立派に育て上げた実績がある。
松は、その子を凛々しく利発に育てたが、5歳になった折に、もと自分が住んでいた高遠藩に養子として送ることにした。この頃は(1615年当時)保科家が高遠城の城主であったので保科正之という名がつき、のち3万石の大名になる。
これは伝説であるが、仔細はともかく大方信ぜられる。
正之は、18歳になった折、実父の秀忠に感激の面会をした後20万石で出羽の国の大名になった。
その後3代将軍になった家光にも気に入られ、会津藩23万石の藩主に任ぜられたのであった。
この正之は、開府当時の三大名君として挙げられ、水戸光圀、池田光政と並び称される。
僕が講演を行ったK市を流れ、現在でも東京や多摩地区に住む人々に癒しをもたらしている『玉川上水』は、保科正之の決断で43キロの道程を8月で開削したものであり、設計や工事は玉川兄弟が引き受けた。
これにより、世界最大100万都市の江戸の住民の飲み水を、神田上水と合わせて確保したのである。
2009-10-19 Mon
時代は大きく変わっていた。
来年は、坂本龍馬の年らしいが。
僕が病気にかかって毎日悶々としている間に、世間では政権が変わって、世の中が大きく変化していた。
自分にとっても一大変革だったが、日本という国が、未曾有の大変革をしていた。
昨今のニュースを聞いていると、これまでの自民党政権になかった大臣や副大臣、政務官なる人たちが連日マスコミに登場して、大きい進路変更を発表し、各方面から注目が集められて大議論に発展している。
60年以上続いてきた自民政権だが(一時的に中断はしたが)、過去に危ないときも何回かはあった。でも、そのたびに、日本人の持つ保守性に助けられて、公明党の協力もあって生き延びてきた。
小泉さんが出てきたときは、「自民党をぶち壊す」といって、人気をはくし、田中真紀子さんを宣伝カーに乗せてまで選挙を戦って、多数の国民の支持を得た。
でも、その田中さんが外務官僚と闘って霞ヶ関改革をしようとしたら、小泉本人からスカートを踏まれたという。
4年前の衆議院選挙では、郵政民営化を掲げて、それが有権者から受け入れられたから勝利したということになっているが、本当にそうなのか。
僕には、いまだに、あの郵政民営化がどんなものだったのか、またその必要があったのかが良くわからない。
小泉劇場と当時言われたが、多くの人たちが彼の魔術にかかってしまっていたのかもしれない。
あの当時、大橋巨泉と言う人が民主党から立候補して大量票を獲得したことがあった。
彼は、すぐ議員を辞職してしまったが、言い続けてきたことを思い出す。
「皆さんは、小泉さんにだまされています」と。
あの当時、大勢の人が小泉支持だったことを考えると、ずいぶんと度胸のある発言だったように思える。
僕は、若い頃から、巨泉信者だったから、余計、そのように感じるのかもしれないが、彼には、競馬の予想で超人気を博したように、凡人と違う何か特殊技能を持っているような気がする。
それに、親近感を感ずる(巨泉は、もともと、ジャズ評論家であるし、最初の奥さんはヴォーカルのマーサ三宅さんだ)。
今だから話そう。
僕は、大学時代サックスも吹いてはいたが、毎週のように東京競馬場に通っていた。
分厚いノートを持って、競走馬の成績をつけて、いつも2階席のゴール板前に分捕っていた。当時は、ラジオ関東という放送局があって(今のラジオ日本)、そこに巨泉がレギュラーで予想するのだった。
昭和41〜2年の頃で、競馬馬でいえば、アカネテンリュウやアローエクスプレス、タニノムーティエという馬が走っていた頃である。
彼は、確か、いつも昼の12時15分ごろ出演するのだが、その時間になると、競馬場全体が異様な雰囲気に包まれる。
シ〜ンと静まり返るのである。
お客さんの多くが、イヤホンなしでその予想を聞く人が多かったから、場内が巨泉の声一色なのである。
それも、場内のスピーカーからではなくて、何千、何万という人のラジオの音の集合体なのである。
それくらいだから、彼が予想した後の倍率はそれなりに変化するといわれた。また、よく当たった。
今でも、覚えているのは、あのハイセイコーという超人気馬が出現したとき、NHK杯に出走した。
増沢末夫という騎手を背中に乗せて、返し馬(ウォーミングアップ)に入る。それがまた、見事な走りっぷりで、巨泉は「まるで、天馬だ」といった。
その結果、ぶっちぎりで勝った。
その後の、ダービーでは、圧倒的な人気で3着に敗れた。
僕は当時学生だったが、そのラジオ関東の競馬中継にゲスト出演したことがある。
学生は馬券を買うことは禁止されているから、サラリーマンだと言って偽って、巨泉の隣に座って予想をした。
その時、偶然僕の予想が当たって8800円の大穴を当てた。
当時はまだ馬連という馬券がなくて、枠連だけだったので、これはすごい穴なのである。
確か、ケンサチオーとホワイトフォンテンという2頭が1・2着だった記憶がある。
僕は逃げ馬が好きで、ホワイトフォンテンと言う馬は、逃げて逃げて逃げまくる馬だった。
そして逃げ残った。
また、巨泉がラジオで支持された原因のひとつに、彼の「反骨精神」があったからだ、と思い出す。
競馬の予想だけでなく、その当時の中央競馬会(JRA)への批判が多いのである。
歯に絹を着せぬあの調子で言いまくる。
中央競馬会が、一部の利権者にばかり気を使ってファンサービスがなってないから、日本という国はいつまでたっても競馬の後進国でいる、という。
農林省から天下った官僚への痛烈な批判を含めてのことだったのだが、それを理解できた人は、あまりいなかっただろう。
勿論、当時の僕にも、わからなかった。
それがまた、小気味よかった。
馬券のマイナスを、それで気分転換していたのかなあ。
今、これだけ、格差社会が出来上がってしまって、貧富の差ができて、子供を学校にも行かせられないなんていう報道を聞くと、愕然とする。
だって、日本という国は世界第2位の経済大国で、1億総中流なんていわれていたじゃないですか。
今、民主党が、コンクリートから国民の生活へシフト替えをしているということだが、自然な成り行きなのかもしれない。
大変革という言葉を聴くと、明治維新を思い出しますね。
江戸から明治に代わって、「本当に良かったの」と疑問を持った人たちが当時大勢いた。
あの時、果たして国民生活は向上したのだろうか。
ただ一点、きっと良かったのではないかと思われるのは、他国からの侵略がなかったことか。
でも、新しい時代は、庶民には過酷な辛い時代になったように思える。
だって、明治以降の政府は、何しろ富国強兵、殖産興業、国民には我慢をさせて、その分を国の軍事的な繁栄にまわした。
欲しがりません勝つまでは、忍耐を強要してきた軍国主義の時代への突入だったのだから。
だから、徳川様の時代のときのほうが、よほど良かったということになる。
今度の政権は、その逆を行くという方針だから、あのときのようなことにはならないだろうが、それにしても、マニフェストに書かれていることが、余りに理想的なことが多くて、果たして出来るのか心配だ。
でも、それが可能になるくらい、これまでの無駄を徹底的にあらわにして欲しい。
坂本龍馬は、「日本を洗濯する」といった。
西郷さんは、「明治維新をやり直す」といった。
自分の行った維新は、「こうでないんだ」というやるせなくも忸怩たる思いだったに違いない。
でも、西郷のやり直しは、“最後の士族の反乱”として片付けられ、とんだ罪人にされてしまった。
正しく、歴史を踏まえて欲しいものである。
来年は、坂本龍馬の年になるらしいが、龍馬の親権者、理解者、協力者として登場するのは勝海舟であり、西郷である。
NHKが、どのように描くのかわからないが、正しい歴史検証をして欲しいが。
来年は、坂本龍馬の年らしいが。
僕が病気にかかって毎日悶々としている間に、世間では政権が変わって、世の中が大きく変化していた。
自分にとっても一大変革だったが、日本という国が、未曾有の大変革をしていた。
昨今のニュースを聞いていると、これまでの自民党政権になかった大臣や副大臣、政務官なる人たちが連日マスコミに登場して、大きい進路変更を発表し、各方面から注目が集められて大議論に発展している。
60年以上続いてきた自民政権だが(一時的に中断はしたが)、過去に危ないときも何回かはあった。でも、そのたびに、日本人の持つ保守性に助けられて、公明党の協力もあって生き延びてきた。
小泉さんが出てきたときは、「自民党をぶち壊す」といって、人気をはくし、田中真紀子さんを宣伝カーに乗せてまで選挙を戦って、多数の国民の支持を得た。
でも、その田中さんが外務官僚と闘って霞ヶ関改革をしようとしたら、小泉本人からスカートを踏まれたという。
4年前の衆議院選挙では、郵政民営化を掲げて、それが有権者から受け入れられたから勝利したということになっているが、本当にそうなのか。
僕には、いまだに、あの郵政民営化がどんなものだったのか、またその必要があったのかが良くわからない。
小泉劇場と当時言われたが、多くの人たちが彼の魔術にかかってしまっていたのかもしれない。
あの当時、大橋巨泉と言う人が民主党から立候補して大量票を獲得したことがあった。
彼は、すぐ議員を辞職してしまったが、言い続けてきたことを思い出す。
「皆さんは、小泉さんにだまされています」と。
あの当時、大勢の人が小泉支持だったことを考えると、ずいぶんと度胸のある発言だったように思える。
僕は、若い頃から、巨泉信者だったから、余計、そのように感じるのかもしれないが、彼には、競馬の予想で超人気を博したように、凡人と違う何か特殊技能を持っているような気がする。
それに、親近感を感ずる(巨泉は、もともと、ジャズ評論家であるし、最初の奥さんはヴォーカルのマーサ三宅さんだ)。
今だから話そう。
僕は、大学時代サックスも吹いてはいたが、毎週のように東京競馬場に通っていた。
分厚いノートを持って、競走馬の成績をつけて、いつも2階席のゴール板前に分捕っていた。当時は、ラジオ関東という放送局があって(今のラジオ日本)、そこに巨泉がレギュラーで予想するのだった。
昭和41〜2年の頃で、競馬馬でいえば、アカネテンリュウやアローエクスプレス、タニノムーティエという馬が走っていた頃である。
彼は、確か、いつも昼の12時15分ごろ出演するのだが、その時間になると、競馬場全体が異様な雰囲気に包まれる。
シ〜ンと静まり返るのである。
お客さんの多くが、イヤホンなしでその予想を聞く人が多かったから、場内が巨泉の声一色なのである。
それも、場内のスピーカーからではなくて、何千、何万という人のラジオの音の集合体なのである。
それくらいだから、彼が予想した後の倍率はそれなりに変化するといわれた。また、よく当たった。
今でも、覚えているのは、あのハイセイコーという超人気馬が出現したとき、NHK杯に出走した。
増沢末夫という騎手を背中に乗せて、返し馬(ウォーミングアップ)に入る。それがまた、見事な走りっぷりで、巨泉は「まるで、天馬だ」といった。
その結果、ぶっちぎりで勝った。
その後の、ダービーでは、圧倒的な人気で3着に敗れた。
僕は当時学生だったが、そのラジオ関東の競馬中継にゲスト出演したことがある。
学生は馬券を買うことは禁止されているから、サラリーマンだと言って偽って、巨泉の隣に座って予想をした。
その時、偶然僕の予想が当たって8800円の大穴を当てた。
当時はまだ馬連という馬券がなくて、枠連だけだったので、これはすごい穴なのである。
確か、ケンサチオーとホワイトフォンテンという2頭が1・2着だった記憶がある。
僕は逃げ馬が好きで、ホワイトフォンテンと言う馬は、逃げて逃げて逃げまくる馬だった。
そして逃げ残った。
また、巨泉がラジオで支持された原因のひとつに、彼の「反骨精神」があったからだ、と思い出す。
競馬の予想だけでなく、その当時の中央競馬会(JRA)への批判が多いのである。
歯に絹を着せぬあの調子で言いまくる。
中央競馬会が、一部の利権者にばかり気を使ってファンサービスがなってないから、日本という国はいつまでたっても競馬の後進国でいる、という。
農林省から天下った官僚への痛烈な批判を含めてのことだったのだが、それを理解できた人は、あまりいなかっただろう。
勿論、当時の僕にも、わからなかった。
それがまた、小気味よかった。
馬券のマイナスを、それで気分転換していたのかなあ。
今、これだけ、格差社会が出来上がってしまって、貧富の差ができて、子供を学校にも行かせられないなんていう報道を聞くと、愕然とする。
だって、日本という国は世界第2位の経済大国で、1億総中流なんていわれていたじゃないですか。
今、民主党が、コンクリートから国民の生活へシフト替えをしているということだが、自然な成り行きなのかもしれない。
大変革という言葉を聴くと、明治維新を思い出しますね。
江戸から明治に代わって、「本当に良かったの」と疑問を持った人たちが当時大勢いた。
あの時、果たして国民生活は向上したのだろうか。
ただ一点、きっと良かったのではないかと思われるのは、他国からの侵略がなかったことか。
でも、新しい時代は、庶民には過酷な辛い時代になったように思える。
だって、明治以降の政府は、何しろ富国強兵、殖産興業、国民には我慢をさせて、その分を国の軍事的な繁栄にまわした。
欲しがりません勝つまでは、忍耐を強要してきた軍国主義の時代への突入だったのだから。
だから、徳川様の時代のときのほうが、よほど良かったということになる。
今度の政権は、その逆を行くという方針だから、あのときのようなことにはならないだろうが、それにしても、マニフェストに書かれていることが、余りに理想的なことが多くて、果たして出来るのか心配だ。
でも、それが可能になるくらい、これまでの無駄を徹底的にあらわにして欲しい。
坂本龍馬は、「日本を洗濯する」といった。
西郷さんは、「明治維新をやり直す」といった。
自分の行った維新は、「こうでないんだ」というやるせなくも忸怩たる思いだったに違いない。
でも、西郷のやり直しは、“最後の士族の反乱”として片付けられ、とんだ罪人にされてしまった。
正しく、歴史を踏まえて欲しいものである。
来年は、坂本龍馬の年になるらしいが、龍馬の親権者、理解者、協力者として登場するのは勝海舟であり、西郷である。
NHKが、どのように描くのかわからないが、正しい歴史検証をして欲しいが。
2009-10-09 Fri
ここのところ、長らくブログを休んでしまった。
理由がある。
病気にかかっていたからだ。
数年前から、職場の健康診断で「肺に影がある」とのことで、再検査を受けていたのだが、今年も引っかかった。
八王子のT病院に毎年診てもらっていたので、今年もそこでCTを撮ったのだが、その結果が深刻なものだった。
昨年までは、大したことはないとのことだったのだが、今年の9月に突然「病気にかかっている」、それも、難病だという。
僕自身、全く自覚症状はこれまでなかったし、まさか、自分がこういう病気にかかるなんて、今でも信じられない。
T病院の医者から、「長生きしても、7〜8年かな」と、宣告された。
「何年か先には、息苦しくなって、酸素ボンベのお世話になる」ともいわれた。
『ガーン』
目の前が真っ暗に。
その日から、これまでなんともなかった「肺」だが、痛みが出てきた。そして、息苦しい。
夜中に眼が覚める。
醒めると、病気のことばかりを考えてしまって、眠れなくなる。
こうなったら、他の医者の意見も聞いてみよう。最近流行ってきた「セカンド・オピニオン」というやつで、紹介状を書いてもらって、違う病院に行ってみることにした。
担当医にしてみれば、患者からそのような要望を出されるのは、屈辱的なことなのか。
行かせないようにしようと、良い対応ではなかった。
9月の終わりに、紹介状を持って市立病院に行った。
たまたま、アメリカ帰りの肺の専門医がいるとのことで、紹介状を持って言った。
そこでも、同じく「間質性肺炎」だといわれた。
ただ、市立病院では、詳しい検査ができないので、「紹介状を書くからもっと大きな病院に行きなさい」と、言われた。
今度は、医者から進められて“サード・オピニオン”である。
結果、信濃町のK病院に今度行くことになった。
何の因果か、あの 沖田総司が肺病で亡くなったすぐ横の大学病院である。
そこで、更なる精密検査を受けて、今後の指針を決めることになるらしい。
場合によっては、肺の一部を切り取って検査ということもあるということだ。
その場合には、3週間ほどの入院は覚悟しなければならないかも。
今月の19日に検査を受けるが、それで、僕の人生の今後が決まると見るべきか。
この病気のことを、否でも、知らず知らず考えてしまう。気を紛らわそうとするのだが、ダメだ。
自然に、頭の中がこの病気に支配されている。
すると、胸が痛むし、ここ数日、貧血気味である。
貧血には、ヨモギが良いというので、昨日も蓬サウナに行った。
どれほどの効果があるのかわからないが、利く薬がないといわれると、神にも祈る気持ちである。
あと、たまねぎの皮を煎じて、豆腐と一緒に食べると良いというので、毎日それをしている。
何かをしていないと、気が落ち着かないのだ。
今、僕は、自分の仕事で、暮の「第九」の合唱練習を毎週日曜日に行なっている。

ピアノ伴奏の女性が、僕の病気のことを悲しんでくれて、「治るように、毎日、パワーを送りますね」と、言ってくれた。
この一言がとても、僕の心の安らぎになった。
医学で治らないなら、こういうパワーをいただいて、少しでも良いほうに向かってくれればと願ってしまう。
先日、ある公民館で、テナーサックスの演奏と松姫の話をした。
多いに受けた。
自分の存在が、人々の役に立っていると思うとすごい充実感と幸福感を感じた。
その最中は、夢中だから、痛みも息苦しさもなかった。
今のところ、何かに夢中に没頭していれば、痛みも苦しみもない。多分、「気」から来ていることだろうから、気を紛らわすしかない。
だから、これから、今までどおり、ブログを書きたいと思っている。
次回からは、前回までの続きを書こうと思っている。
理由がある。
病気にかかっていたからだ。
数年前から、職場の健康診断で「肺に影がある」とのことで、再検査を受けていたのだが、今年も引っかかった。
八王子のT病院に毎年診てもらっていたので、今年もそこでCTを撮ったのだが、その結果が深刻なものだった。
昨年までは、大したことはないとのことだったのだが、今年の9月に突然「病気にかかっている」、それも、難病だという。
僕自身、全く自覚症状はこれまでなかったし、まさか、自分がこういう病気にかかるなんて、今でも信じられない。
T病院の医者から、「長生きしても、7〜8年かな」と、宣告された。
「何年か先には、息苦しくなって、酸素ボンベのお世話になる」ともいわれた。
『ガーン』
目の前が真っ暗に。
その日から、これまでなんともなかった「肺」だが、痛みが出てきた。そして、息苦しい。
夜中に眼が覚める。
醒めると、病気のことばかりを考えてしまって、眠れなくなる。
こうなったら、他の医者の意見も聞いてみよう。最近流行ってきた「セカンド・オピニオン」というやつで、紹介状を書いてもらって、違う病院に行ってみることにした。
担当医にしてみれば、患者からそのような要望を出されるのは、屈辱的なことなのか。
行かせないようにしようと、良い対応ではなかった。
9月の終わりに、紹介状を持って市立病院に行った。
たまたま、アメリカ帰りの肺の専門医がいるとのことで、紹介状を持って言った。
そこでも、同じく「間質性肺炎」だといわれた。
ただ、市立病院では、詳しい検査ができないので、「紹介状を書くからもっと大きな病院に行きなさい」と、言われた。
今度は、医者から進められて“サード・オピニオン”である。
結果、信濃町のK病院に今度行くことになった。
何の因果か、あの 沖田総司が肺病で亡くなったすぐ横の大学病院である。
そこで、更なる精密検査を受けて、今後の指針を決めることになるらしい。
場合によっては、肺の一部を切り取って検査ということもあるということだ。
その場合には、3週間ほどの入院は覚悟しなければならないかも。
今月の19日に検査を受けるが、それで、僕の人生の今後が決まると見るべきか。
この病気のことを、否でも、知らず知らず考えてしまう。気を紛らわそうとするのだが、ダメだ。
自然に、頭の中がこの病気に支配されている。
すると、胸が痛むし、ここ数日、貧血気味である。
貧血には、ヨモギが良いというので、昨日も蓬サウナに行った。
どれほどの効果があるのかわからないが、利く薬がないといわれると、神にも祈る気持ちである。
あと、たまねぎの皮を煎じて、豆腐と一緒に食べると良いというので、毎日それをしている。
何かをしていないと、気が落ち着かないのだ。
今、僕は、自分の仕事で、暮の「第九」の合唱練習を毎週日曜日に行なっている。

ピアノ伴奏の女性が、僕の病気のことを悲しんでくれて、「治るように、毎日、パワーを送りますね」と、言ってくれた。
この一言がとても、僕の心の安らぎになった。
医学で治らないなら、こういうパワーをいただいて、少しでも良いほうに向かってくれればと願ってしまう。
先日、ある公民館で、テナーサックスの演奏と松姫の話をした。
多いに受けた。
自分の存在が、人々の役に立っていると思うとすごい充実感と幸福感を感じた。
その最中は、夢中だから、痛みも息苦しさもなかった。
今のところ、何かに夢中に没頭していれば、痛みも苦しみもない。多分、「気」から来ていることだろうから、気を紛らわすしかない。
だから、これから、今までどおり、ブログを書きたいと思っている。
次回からは、前回までの続きを書こうと思っている。








